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rexus別館

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ressurrection 完結編

resurrection 完結編


>>こちらのみ語り手がシェーナに変わります。

 机の上に伏している。押し付けるように頬をつけて、顔を横に向けて、真っ白な壁をじっと見つめている。ひんやりとした感触がとても心地よかった。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう。
 声もなく自分に問いかけてみる。
 私が欲していたのはこのような結末だったのだろうか? 今まで頑張ってきたのは、こんなものの為であったのだろうか? 頭の中はあっという間に疑問符で一杯になって、それはほのかに甘い混乱と共に、目眩のような感覚を引き起こさせる。
 世界がぐるぐると回っていた。何もない世界が、ぐるぐると回っていた。私はその中心に蹲り、震える手で膝を抱いて、固く目を閉じている。自分に問いかける声だけが、頭の中で延々と鳴り響いていた。しかし、私はそれに答える術を持たない。
「補佐官、宜しいでしょうか?」
 ドアをノックする音に男の声が続いた。私はゆっくり起きあがると、手櫛で簡単に髪を整え、「どうぞ」と何もなかったように答える。そもそも何もありはしなかったかと自嘲的に呟きながら。
「失礼します」と言って男はドアを開けた。
 金属が軋む音が響き渡る。彼はきびきびとした動きで部屋の中に入ると、背を向けてドアを閉め、再び私の方に顔を向けた。
 齢は二十歳をこしたくらいか。アドビスの法衣を身に纏い、童顔も相まってか、姿だけでは男女の別は判然としない。
「ご報告に参りました」
「ええ」
「地下通路にてユーリ・カルバの遺体を発見しました。魔物にやられた模様です。リストに載っていた他の二人の行方は未だ不明ですが、今件に関わったと思われる17名を拘束致しました」
「……多いわね」
「はい。金絡みの線で関与した者がかなりの数おりますので」
 真っ白なローブを靡かせながら、彼がこちらへと歩いてくる。
「お納め下さい」と言って差し出してきたのは一枚の紙切れだった。見ると、アドビスの有力者達の名前がずらりと並んでいる。
「分のいい投資だこと。全部裏はとれてるの?」
「2名を除いて、皆関与を認めています」
「まったく、やってくれたものだわね。でも、これが全てという訳ではないんでしょ?」
「ええ、これはほんの一部です」
「解ったわ。徹底的にやって頂戴。他には何か?」
「カタコンベにて続々と研究施設が見つかっています。セレッティ博士が調査をしたいと仰っていますが、いかがなさいますか?」
「好きにして貰って構わないわ。必要なものがあれば用意してあげて」
「はい、承知しました。あと……」
 そこまで言って、彼は何やら口ごもっているようだった。視線を床に落とし、唇を固く結んでいる。
「何?」
「……エヴァンズ様がお話になりたいと」
 心臓を掴まれたように胸が苦しくなる。項垂れた私は、机の上をじっと見つめながら、その名前を頭の中で反芻していた。ニール・エヴァンズーー愛しいいとしい裏切り者様だ。
「ニールが? 用件は何だと?」
「仰っていませんでした。ただ、取り次いで欲しいと」
「それなら、こう言って頂戴。『貴方と話す事はない』と」
「解りました」
「それから」
「はい?」
「彼はもう近衛騎士団の長ではない。敬称は必要ないわ。それに敬語もね」
「あ……申し訳ありません」
「それだけ?」
「は、はい。それだけです」
「下がっていいわよ。また何か進展があったら教えて」
「それでは、失礼します」
 逃げるように去っていく彼を見て、些か悪いことをしてしまったか、という思いが沸き起こっていた。私の科白も口調も、いかにも叱責するようなものであったから。
 深々と椅子に腰掛けて、一つだけ大きなため息を吐き捨てた。それから、おもむろに机の引き出しへと手をかける。だが、すぐに開ける事は出来なかった。どうしようかと悩んでいた。そうする事が果たして正しいのかと、そう考えていた。いや、答えは解っている。正しいはずがない。だけれど、弱い私はその様なものに頼るしかない。じゃないと、このちっぽけな存在は、あっという間にぺしゃんと潰れてしまうだろうから。
「参るわね」
 感情を込めずに呟く。それを合図に、勢いよく引き出しを開けた。中に入っていたのは、ヒルダから貰ったディーヴァの実だった。10個あった筈のそれは、いつの間にかたったの一つになっている。ニールと夜を過ごした後は必ず、貪るようにして食らいついていた。
 最後の一つを握りしめる。どれだけ肌を重ねたのかと数えるように。それから、グッと指に力を込めた。
 乾いた音を立てながら粉々になるディーヴァの実。床に一瞥をくれると、足早に部屋から立ち去っていった。


 私が向かっていたのは女王の部屋だった。
 仕事はそれなりに溜まっていたが、この目で容態を確認しないと気が済まなかったのだ。道すがら、私を見つけた神官達は次々と仕事の話をしてきたが、その一つ一つに「これでもか」という程丁寧に対応して、目的の場所に着くまでにはかなりの時間がかかっていた。

 ドアの前には二人の兵士が見張りについていた。体格の良い、熊のような男達だ。私の姿を確認するや否や、「お会いになられますか?」と訊ねてくる。
「ええ、お願い」
 そう応えると、二人は無言でドアを開けてくれた。
 ドアの傍にはイリアが、様子を見守るようにポツンと立っている。ベッドのすぐ傍にはシオンが跪いて、その横には施療師が控えていた。
 挨拶代わりにイリアの肩を叩いてやる。彼女は気怠げにこちらを向くと、唇をキュッと結んで、軽く頭を下げてきた。私は随分とくたびれた笑みを返して、それからシオンの方へと歩いていった。
「容態は?」
 ベッドの方に視線を移す。そこに横たわった女王は、まるで人形のようにピクリともしない。頬から首筋にかけては生々しい火傷の痕が残って、その顔から表情の類を消し去っていた。女王は、醒める事のない夢の中で一体何を見ているのだろう。ふと浮かんできたのはそのような疑問だった。
「ずっと眠ったままだ。取り敢えず小康を保っているようだが」
「そう……」
 沈黙が訪れる。不意に視線を落とすと、彼の背中は、これでもかという程小さく見えた。首から腰にかけては随分と大きく湾曲しているし、髪の毛もマントもボサボサで、あれ以来風呂にも入っていないようだった。
「あなた」
 そう話しかけようとした瞬間、シオンが微かな声を漏らした。その正体を探るように、反射的に女王の方へと顔を向ける。
「ミト!? 大丈夫か!?」
 女王の瞼が微かに震え、そして閉じた目をゆっくりと開いていく。
 焦点の定まらない、随分と虚ろな瞳をしていた。それでも、その瞳に並々ならぬ力を感じて、私はハッと息を呑んでしまったのだ。
「皆は……どうなりましたか……」
 何を掴もうとしていたのだろうか。布団から手を出した女王は、それをわなわなと震わせながら、天井に向かって伸ばしていく。その手を握りしめたシオンは「大丈夫だ」と涙声で返していた。
「お前のお陰で何とかなったよ……ミト……お前が頑張ってくれたから、何とか乗り切ることが出来た」
 女王の口元がフッと弛む。とても安らかな顔をしていた。少なくとも、私にはそう感じられた。
「よかった……」
 囁くように言って、その目はゆっくりと閉じられていく。そして、シオンの握りしめていた手がするりと落ちていった。
「ミト! ミト!!」
 私は、この時に何を感じていたのだろう。自分でもよく解らない。何かを感じているのかすら、解りはしなかった。そう、私はただ呆然と見つめていた。この虚ろな瞳に、兄妹の姿を映し続けていた。
 施療師が女王の口元に掌を翳す。
 それから首筋に触れて、「大丈夫ですよ」と落ち着き払った声で語りかけてきた。
「お休みになっているだけです。しばらくはこういう事が続くかもしれませんが、心配はいりませんので、ご安心下さい」
「本当か?」
「ええ」
 余程堪えたのだろうか。シオンは崩れ落ちるように座り込むと、「良かった」と小さな声を漏らした。きっと、イリアには聞こえていなかっただろう。
「顔の火傷は……ちゃんと治せるのか?」
「ええ、何とか出来ると思います。ただ、今はお体を治す方が先決ですので」
「……そうだな。シェーナ、この部屋の鏡を全部運び出させてくれないか? 目が覚めた時にショックを受けるといけないから」
「手配しておくわ。ところで、あなたちゃんと眠ってる?」
「ああ、もちろん」
「嘘。ずっとここにいたんでしょ?」
「ちょくちょく眠ってるさ」
「ねえ、女王が良くなった時にあなたが倒れでもしたらーー」
「大丈夫だ」
 ピシャッとはねのけるようにシオンが言う。とりつく島もないというわけか。
 私が言った程度のことはイリアも言っている筈だし、何より、これ以上厄介ごとに首を突っ込む気分にはなれなかった。疲れ切って、擦れきった今の私には、大凡人に構うだけの余裕は残されてはいなかった。
 私は一つだけため息をつくと「まあ、いいけどね」と吐き捨てて、くるりと身体を翻した。そのままドアの方へと歩いていく。
「そう、ユーリが遺体で発見されたそうよ。地下道で、魔物にやられたらしいわ」
 ドアの前まで来た所で足を止める。誰も応えようとはしない。
「行くわ」
 そう言ってドアノブに触れた瞬間、頭の中にある言葉が思い浮かんできた。そして、その言葉は私を酷く動揺させた。

ーーこれで名実共に女王となったわけか

 勢いよくドアを開けて外に飛び出す。すぐさま閉めたドアにもたれかかって、荒い息を抑えるように、両手を胸に押し当てていた。
 何であんな事を思ってしまったのだろう。この期に及んで、まだあのようなことを考えていたなんてどうかしてる! 女王にそんな思惑などあった筈がないのに、それを私は……
「大丈夫ですか?」
 その声が聞こえた瞬間、しまった、と思った。動揺のあまり、そこに兵士達がいたことを忘れていたのだ。
「大丈夫よ」
 吐き捨てるように言って、足早に歩き始めた。
 廊下には疎らに人が行き交っていたが、その中の一人が私に気付いたらしい。
「あの、すみません」なんて言いながらのろのろと近づいてくる。
「後にして。時間がないの」
「え……」
「だから後にしてって言っているの! 私は忙しいのよ」
 互いの肩と肩がぶつかり合っていた。避ければ良かっただろうに、私はそうしなかった。そして、何もなかったかのように歩き続けていた。
 その様子に周りの人間も気づき始めたようだった。立ち止まった者達は、ひそひそと話をしながら、一様に私の方をじっと見つめている。
 私はただひたすら焦っていた。どうしていいか解らなかった。何故あんな事をしてしまったのかという後悔と、ああする他無かったんだという弁明がごちゃ混ぜになっていた。そして次にやった事と言えば、それに輪をかけて酷いものだった。
 その場に立ち止まった私は、辺りをぐるりと見回して「何見てるのよ! さっさと仕事に戻りなさい!」と叫んでいたのだ。そして、気がついたら逃げるように走り出していた。廊下の角で曲がって、そこにある階段を一気に駆け下りていく。そして一階までやって来た私は、裏庭に通じるドアを勢いよく開け放って、外に飛び出していた。

 私を出迎えてくれたのは、青々と茂った草花と、さんさんと降り注ぐ太陽の光だった。
 幾分平静を取り戻した頭で、先程の出来事を振り返ってみる。
「何てこと……」
 うんざりとした風に吐き捨てて、邸の壁に背中を付けた。そのままずるずると腰を下ろしていく。
 全てが終わってしまった気がした。私が必死になって築きあげてきたものが、音をたてながら崩れ去っていく。ニールに放ったあの言葉は、実は自分に向けたものではなかっただろうか。視線を宙に彷徨わせて、そのような事をぼんやりと考えていた。
 何故我慢が出来なかったのだろう。今までそうしてきたことが、何故出来なかったのだろう。私は、そんなにも無理をしてきたのだろうか。耐えきれない程に。
「ここにいたんだね」
 突然飛び込んできた声に、心の中で舌打ちをしていた。よりにもよってヒルダに見つかってしまうだなんて。今の私はどんな顔をしているだろう? 彼には気付かれていないだろうか? ここにいる事を、どう説明すればいい? 私の頭の中はあっという間に疑問符で埋め尽くされていく。
「皆が探していたよ」とヒルダが続ける。
「ちょっと休んでいただけよ。働き詰めだったから」
「それはいいね。隣に座っても?」
「ええ、ご自由に」
「それじゃ、遠慮無く」
 目の前を横切っていったヒルダが私の隣に腰を下ろした。だが、彼の方には決して顔を向けなかった。それが何であっても、悟られるような振る舞いをしてはならないと、ただそれだけを考えていた。
「よく解ったわね。ここにいるの」
「ははっ、凄いだろ?」
「別に」
「実はね、君が走っていくのを見かけたんだよ」
 少しずつ鼓動が早まっていく。胸がざわついて、口の中がカラカラになっていた。
「そう」
「大丈夫かい?」
「何が?」
「君だよ」
「私?」
「そう、君」
「ハッ、大丈夫に決まってるじゃない」
「そうは見えない」
「ふふっ、あの坊やと同じ事を言うのね」
「あの坊や? そんな事を言ったら怒るよ、きっと」
「いいわよ。ここにはいないんだもん。でも、確かに子供扱いしたら悪いかもね」
「そんな事より」
「だから、何ともないって言ってるでしょ! 私、貴方が思ってる程弱い女じゃないわ」
「シェーナ」
「だって!」
「シェーナ」
 なだめすかすようにヒルダが言う。何故だか、これ以上ムキになって抵抗する気はすっかり失せてしまっていた。だからと言って、全てをさらけ出すような気にもなれはしないのだけれど。
「だって……どうすればいいのよ……私は……」
「僕で良ければ話を聞くよ。それで少しでも楽になれるのなら。僕になら言えるだろう?」
 僕になら、と言う科白は、私の反抗心に再び火をつけていた。ヒルダの中に、ニールのような男の影を見いだしていたのだ。いかにも自分が特別のような、尊大な言い方に、苛立ちを禁じ得なかった。
「僕にならって、どういう意味よ?」
「別に、深い意味はないよ」
「いいえ、ある筈だわ。じゃなきゃそんな言い方しないでしょ? ねえ、どういうつもりで言ったの?」
「はいはい。そんな怖い顔をしなくてもいいだろう」
「いいから、早く言いなさいよ」
「第一に、僕は魔導科学研究所の所長だ」
「だから?」
「そんな肩書きは持ってるけどね、研究者なんて、世間一般には奇人変人で通るような役職には違いないわけだ。それに、僕には発言力があるわけでもなければ、権力があるわけでもない。だから、君の弱みを握った所で、それを使うメリットもなければ力もないというわけだ」
「二つ目は?」
「第二に、僕は特別いい人というわけではないけど、少なくとも悪い人間じゃない」
「ふふっ、何よそれ。本気で言ってるの?」
「一応、本気のつもりなんだけどね。残念ながら誰も信じてくれないんだ」
「あなたらしいわ。本当よ。でも、嫌いじゃないわ。そう言う所」
「別に無理をして話す必要はないさ。ただ、話すことで少しでも楽になるならと思って」
 彼と話しながら、自然と口元が弛んでいることに気がついた。本当に、こんな風に自然な笑みを浮かべたのは、一体いつぶりだろう。それから、もしかして私は、彼のことを過小評価していたのかも知れない。彼の言ではないけれど、そう言う目で見ていたのかも知れなかった。そう、私は草むらに視線を落としながら、その様なことを考えていた。
「ねえ、私がここにいる理由。貴方に解る?」
「見当はつくね」
「何?」
「よしておくよ。僕が言ったら、何だかいかにもって感じがするだろう。僕の思想や意思にかかわらず」
「いいわよ。ほら、言ってみなさいよ」
「僕はそんな風には思わないけど」と前置きをして「女だからだろう?」と続けるヒルダ。
 がむしゃらになっていた自分を見透かされていたようで、どこか恥ずかしくて、ほんの少しだけ口惜しかった。
「そうね。私はその現状に我慢がならなかった。男と女に、一体どんな違いがあるというの? それなのに、見回してみれば、要職についているのは男ばかり。この国を、私達を支配していたのは他ならぬ男だった。だから、私が頑張ることで何かを変えられるかも知れない、現状を打開できるかも知れないと思った。ミト様のもとでならそれが出来ると思った」
「ああ」
「でもね、私がやって来たことは、私がやってしまったことは、女である自分を利用して……だから……」
「シェーナ、無理はしなくていい」
「結局、女を貶めていたのは他ならぬ私だった。それに気付いた瞬間、どうしていいか解らなくなった。何の為に頑張ってきたのか解らなくなった。これ以上……頑張れなくなった」
 言葉が出てこなかった。堰を切った想いが喉元に詰まってしまったかのように、そこから先を続けられなかった。
 弱い自分をさらけ出している自分が悔しくて、許せなくて、私はただ草の葉を握りしめるしか出来なかったのだ。そんな私を気遣ってか、彼は穏やかな口調で語りかけてくれた。
「頑張らなくてもいいじゃないか。君はよくやっていたよ。君が一生懸命頑張ってきたのを、僕は知っている。君が、他の誰が何と言おうと、僕が認める。本当だよ。だから、これ以上頑張らなくていい。全部投げ出しちゃえばいいさ」
「ふふっ、今だってサボってるわよ。部屋の前には行列が出来てるかも」
「出来てたよ。十数人はいたかな」
「うそ……」
「冗談だよ」
「またそんな事を言う」
「サボりついでにさ」
「ええ」
「これから、一緒に食事にでも行かないか?」
「私を誘ってるの?」
「ああ。今度は冗談じゃない」
「ねえ、ヒルダ」
「皆に見つからないようにしなくちゃな」
「ヒルダ」
「サボってるのを見られると色々」
「……ヒルダ」
「何だい?」
「私は……貴方が思っているような女じゃないわ」
「本当に?」
「ええ」
「それじゃ、気むずかしくもないし、怒りっぽくもないわけ? あ、それから神経質でもなかったのか」
「ハッ……私、もっと素敵な風に思われてるんだと思ってたわ」
「冗談だよ」
「私だって。でも、私は気むずかしいし、怒りっぽいし、神経質だわ。些細なことにすぐ反応するし、物事はキッチリやらないと気が済まないし、それに」
「だから冗談だって。それにね、僕が知っている君が君の全てじゃないって事くらい解ってるさ。何せ僕は研究者だからね。常にあらゆる可能性を考えているんだよ」
「貴方がひがんでどうするのよ。でもね、そういう所も好きよ。何か可愛い」
「だったら、一緒に行ってくれるかい?」
「ええ。でも、物凄く疲れてるの。動くのも億劫なくらい。もうへとへとよ。だから、しばらくこうしていたいわ。何も考えずに、ただぼんやりとしていたい」
「そうだね。それもいいかもしれないな」
 壁に預けていた身体を、ゆっくりと隣に傾ける。彼の肩にこつんと頭をのせた。その肩は、見かけによらず、随分とがっしりしていた。
「……やり直せるかしら」
「さあ、それは僕には解らない。でも」
「でも?」
「一から始めることは出来るよ」
「そうね……そうだったわね」
 心がほんわりと温かくなっていく。その心地よい温もりの中で、私は静かに瞼を閉じていった。
 久しぶりにぐっすりと眠れるかもしれない。そんな当たり前のことが、今はたまらなく嬉しかった。傍に寄り添う肩があるということも。きっともう一度始められる。心の中でそう呟いて、私は意識を手放していった。



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